ムニ新作公演『始まりの終わり』
友情の始まりと終わりと、その偶然について。
『ことばにない』から約2年ぶりの宮崎玲奈の新作。
〈タイトルメンバー〉伊藤拓、上薗誠、河﨑正太郎、黒澤多生、SKANK/スカンク、中村仁、南風盛もえ、藤家矢麻刀、宮崎玲奈、横田僚平、渡邊まな実、渡辺瑞帆
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https://muniinum.com/2025/04/18/munihajimariowari/
あらすじ
グミの話をしようと思う。高校の渡り廊下で出会ったから、着ぐるみのグミ。兄はヤンキーでこのあたりのシマを取り仕切っているのだとか、記号が貼り付けられていたが、なにが本当なのか定かではなかった。ちゃん、でも、くん、でもなく、ただのグミ。足がヒョロ長くショートカットのグミ。ワールドカップの喧騒の裏で事件は起きた。みんなはそれを知らなかった。意味が移り変わり、像が変化する。グミと出会ってから、今までの話。友情の始まりと終わりと、その続き。
「信じる先を求めてきたけど、はじめて自分のことを信じてみようと思ったー。」
上演に向けてのことば
物語のもしくは演劇における、いない者の話をいる者たちが語るという構造がある。いない者の話をいる者たちはなぜするのか。いない者に関しての話のズレが劇の駆動となるからだろう。ジェンダー、セクシュアリティ、出身地などなど、自身の個別性を考える時、各項の歴史性について考えることをわたしは必要とした。それは上記の劇の構造で言うところのいない者も語る、ということである。この2年ほど特に、演劇で当たり前とされていることの多くがわたしには受け入れ難かった。否定したくなる、問い直したくなる。「ない」を言うのはそれほど難しいことではない。同じアナロジーにはまらず、何かを実現すること。演劇を他者とつくるとは、その仮定がわたしが動きだすことには必要だった。
一つの仮定として ”わたしはまさにその当事者でありながら、当事者でない” 作品、『ゴドーを待ちながら』のゴドーが5人いる!語り手も5人いる!という作品を作ることを志向する。今いる場所の来し方について想像する。わたしはまさにわたしでありながら、わたしでない。演劇の支持体は集まりである、とこれまで仮定してきたが、ある集まりは、ただ一つのたしかさを依代とするというよりは、変化のパターン、つまりは動詞を元来「型」として来たのではないかと広義に捉えてみる。動詞について考えたい。トムブラウンのネタに「ナカジMAXをつくる」というネタがある。この演劇はナカジMAXを5人でつくるということに挑戦してみるのかもしれない、とも言ってみる。小さなものを見ることが大きなものを見ることにつながる、と信じたいとも。
と、ここまで書いたが、しかし演劇、どうなるかは上演の日まで定かでない。これを読むあなたも、まさにこの劇の当事者でありながら当事者でない、と言える。(宮崎玲奈)